
IQ 70(日本語バージョン)
03:31
JUGEMテーマ:日記・一般
いきなり英語ですんません…。
何か大事なことを考えるときは、英語の方がまとまるので。
心理学を英語で勉強したからというのもあるが、
もともと自分の事を表現するのに、英語の方が使いやすかったというのもある。
日本語は英語とは少し表現が変わるのはご了承ください。
先週、大学病院で定例カンファレンスが開かれた。
同僚の心理士さんたちが、自閉症傾向のある青年について話し合っていた時、ふと元夫のことが脳裏をよぎった。
私にとってはこの話題は、一種の引き金のようなものだったと思う。一瞬、何か大切なことを見逃しているというメッセージだったのかも、と今は思う。
私が思い出したことは、
IQ70,という数字。
私が大学院を卒業した、インターン1年目の年に、その時不定期に勤務していた病院で心理検査を任されることになり、練習のために元夫に被験者(Testee)になってくれとお願いし、その時に田中ビネー知能検査というのをたまたまやってもらった。
70というのは、その時の結果である。
だが、身内という色眼鏡で、その数字の重要性はその時には見過ごされた。
その後、彼がADHDと自閉症スペクトラムの両方の素因を持っていることが分かったが、それでもIQの事はすっかりスルーされていた(日常の不可解な行動がある程度発達障害で説明がついたから、というのもあった)。
IQ70というレベルは、医学的には軽度の精神遅滞にあたる。改めてその意味に気づいたのは実は先週だったのである。もちろん知能といっても人間の総体的な能力なので、テストで分かるのはそのごく一部だけだし、同じ知能指数の人でも知的な内容には個人差があって、数字だけが一人歩きするのは良くないことは十分分かっている。たとえばウエクスラー式の知能検査だと、同じFIQでも言語性・動作性IQの高さや下位項目の点数の差などはいろんなパターンがあるから、それだけでもいかに個人差が大きいかということを十分示していると思う。
それでも、70という数字は、明らかに何らかの知的な遅れを示唆するレベルである。正常範囲から少し外れているという程度なので、実際には精神遅滞といっても境界線上にあるか、あるいは灰色の領域にあると言ってもいいくらい軽度である。だから専門的な援助を受けることも少ないし、当然福祉サービスも対象外で、医学的な査定を受けて診断が下りることも滅多にない。能力の差は、本当は小さいようで大きいのだが目立たないのが実情である(日常生活レベルではっきりした差が見えるようになるのはIQ60以下からである)。
70のレベルだと、高校はほぼ卒業できるし短大や大学を卒業できる人もいるが、卒業までの道のりが若干長くなるか、個人的なサポートがあってやっと卒業ということも少なくはない。ただ、学歴という点では決して低くはないのである。それでも言語能力という点ではやや遅れがあり、語彙数の少なさや論理の理解力というのはどうしても乏しいと言わなければならない。コミュニケーションのかみあわなさというのも当然見られる。さらに感覚運動協調という点でも、特に同時処理といって見ながら動かすなどの複雑な動作に難があり、概して不器用だし1つのことをやり遂げるのに時間がかかる傾向がある。短時間での記憶や過去を振り返る能力も十分発達しているとは言えないので、新しい技術を覚えたり新しい環境に慣れるのが大変である。周りは何となく違和感というか、ちょっと変わっているなと感じるところはあっても、その違和感がどこから来るのかはよく分からないということが多い。臨床経験を積んだ私でさえ、答えを見つけるのに時間がかかったくらいなので、全く心理学の知識がなければ彼らの知的な能力差を本当に見つけるのはかなり難しいと思う。
IQ70は、それほど深刻な遅れではないが、それでも精神遅滞のカテゴリーに入るのは事実で、時にそのギャップは周囲に混乱をもたらしたり、親しい人間関係に予期しない形でヒビを入れることがあるのだ。
もし、パートナーがこのような問題を抱えていて、それにまだ気づいていないとしたら、大抵の人は、相手が(望ましい方向へ)変わることを望んだり、自分が相手を変えてやろうと考えて、一生懸命教えたり、彼らの行動を修正あるいはコントロールしようとしたり、歩み寄るための妥協点を探ったりということをしてしまう。それはもちろん相手ともっとよい関係を気づきたいからではあるが、それが無駄足になることもある。
彼らの知的レベルでは、どうしても見方が一方的になるのもあって、本当には相手の立場や気持ちに共感したり理解することが難しい。しかも彼らは自分が何か人と違っているということに気づくことも難しく、彼らから見ると私たちの方が変に見えてしまう。さらに、70以下のレベルになると、ときどき善悪の区別というか、社会的にその状況に応じた適切な判断も怪しくなるため、間違った情報がインプットされてしまうと、修正のききにくいところがあり、もし犯罪に手を出したり、何らかの暴力的な行為に至ったりした時には、知的障害のない加害者のグループよりさらに矯正が困難である、と言われている。
元夫の検査結果を思い出した時…その時私はこれまでの様々な経験から、私たちは同じ世界に住むことはできないと悟ったのである。私や同じような立場にある人たちにとって、パートナーと充実した関係を持てるという希望を持つのは現実的ではなく、私たちに出来ることは、彼らが学習や管理能力の面で、何らかの障害を抱えているということを素直に受け入れることだけなのかもしれない。それに私たちがどんなにがんばっても、彼らの全てを理解することなどできないということも。
本当にごく短い時間の間に、私の頭の中ではすべてが整理されていった。
離婚は辛いできごとだったけれど、仕方のないことだとやっと踏ん切りがついたのである。それは自分たちの選択の結果ではあるが、間違いでも罪でもなかったのだと。
そう、私がどんなに一生懸命に伝えようと頑張っても、彼には一部しか伝わっていないし、彼が周囲の状況を理解するにも相当な限度があると分かった時に、私はずっとずっと結婚した当初から続いていた混乱と、自責と葛藤から解放されたと感じた。私が普通にできることが、時々彼にはできないし、同じことを体験しても共有することは難しかった、その気づきによって、ちょうどなくしたパズルのピースが見つかって、あちこち空白になっている部分が埋まっていくような感覚に陥った。ようやく私は、元夫という人物の全体像を見渡せるに至ったのである。
こういう問題はかなりセンシティブ(繊細)なもので、はっきりした答えというものは何もないと分かっている。何が彼にとって良いことなのか、はたまた今の新しいパートナーが彼にとって助けになるかどうかなんてことも、今も全く分からない。
私に唯一出来るのは、彼の日常に祝福をと神に願うことだけかもしれない。
一昨日私は、息子にも父親の知的障害のことについて正直に話をした。
息子はすぐに、私の言わんとすることを察してくれた。
「許し」が私たちにとって最もすばらしいクリスマスの贈り物だったのかもしれない。
長い自責の時期を乗り越えて、やっと前を向くことができたのだから。
| 2008.12.27 Saturday | 発達障害 | comments(0) |






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