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サイコロジストあずきあらいの人生観察&分析日記

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| 2011.01.16 Sunday | - | - |

新しい価値観
17:13
JUGEMテーマ:日記・一般
 

先週の始めに、私を含む3人の専門職のスタッフが突然社長に呼び出された。

会社の規模を縮小する、という話ではあったが、
リストラの対象として呼ばれたわけではなかった。

さらに、規模は縮小するが、外注の仕事は増やすと言い出していて、

そうなると、今の人数ですらこなしきれない量になることは明らかだった。


呼ばれた3人は、コメントはしなかった。
相手が求めているのは、「どこでも対応でき、何でもできるポリバレントな人材」

そんな高すぎる要求に応えられないことなど、十分承知していたのである。




第三者が、「筋が通らない」「おかしい」「矛盾している」と思うような事でも、

ある人の中では全く矛盾もなければ問題もない、ということは、
私の日常ではよくあることだ。

そのために過去随分と、苦しみ涙を流し、腹を立ててきた。

世の中にはわかり合えない人もいる、と理性に納得させようとしても、
不満や嫌な感情は残り続け、

それを抑えるためにエネルギーを費やす。

それが私のこれまでの生き方であった。


しかし、瞑想と熟考ののち、
”絶対的な正しさ”を追い求めるのをやめ、

新しい価値観を取り入れると決意してからは、

自らの正しさや理路整然さを押しつけようとする人たちに対して、
彼らの信念に同意することも、反発することも必要ないと思うようになった。


もし今までと同じ考え方だったとしたら、

たとえ納得いかなくても従うか、同じ考え方を取り入れるか、
相手に変わってもらうかして、

意見が違う、方向性が違うという状況を変えていかなければと思ったことだろう。


しかし、違うということそのものを完全に受け入れると、

今何を願い、何に意志を働かせるとよいかがはっきりと見えてくるのだ。

今回のことは、
私や他の人たちが止めなくても、

実現できることだけが実現されるのだから、何の心配もない。


状況を変えるのに、相手を変えなくてもいいのである。

変えるのは視点であり、

そのための新しい価値観なのである。


それは「ワンネス」という考えである。

詳細は別に述べるが、
それによって見える風景は全く変わるのである。












| 2011.01.16 Sunday | ちょびっと心理学 | comments(0) |

意志は人を動かす
17:14
JUGEMテーマ:日記・一般
 

さて、前述の願いについて、考えるきっかけになった
興味あるエピソードをひとつだけ取り上げておきたい。


私の職場は、仕事の内容が少し特殊で複雑なため、
慣れているスタッフ3人が月ごとのローテーションで仕事を行っている。

そのうちの一人の同僚さんについては
以前から不思議に思うことがいくつかあって、

たとえば、その人と組む日は必ず来客がダントツで多いとか、
難しい仕事が突然持ち込まれ慌てることが多く、

もしかして念(特にネガティブな方)の強い人ではないかと感じていた。

この2人の組み合わせになるのが、月に2〜3回と少ない上に
何ヶ月も続いたのでさすがに偶然とは思えなくなっていたのである。


この同僚さんは、非常に人見知りの激しい人物で、
私に慣れるのにも半年近くかかったくらいの筋金入りであるが、

彼がどうしても苦手な人物、避けたいシチュエーションというのがあるようで、
苦手な人物がいる職場へ半強制的に配置転換になったら、

先方の都合でわずか3日で他の職場に異動になった

というエピソードがあるほど、回避願望の強い人である。


実は先月にも、彼が系列会社に研修に行く話が急に持ち上がり、

全く行ったこともなく知り合いもいないから、行きたくないと漏らしていたのだが、


研修を予定していた当日、私が家の都合で急に半休を取らないといけなくなり、

そのため研修が翌日に延期されたという出来事があった。


そして、今週もまた、同僚さんは別のところへ研修に行く予定になっているのだが、
そこには、彼が最も会いたくない人物がいて、

その話が社長から告げられた時、渋々と承知はしたが、

いろいろと条件を挙げて
何とか研修日を減らそうと必死で食い下がっていた。


そして第一回の研修日が明日なのだが、
またまた私が急な都合で2時間ほど遅れて出勤することになったため、

研修開始が半日遅れることになってしまったのである。


こういう出来事が短期間に2回続くと、さすがに何らかの意志が働いているとしか思えなくなる。


彼は、心底行きたくないのだろうな、と

そのつらい心境を察する次第である。


というのも、遅れる理由が私にとっても全くの予想外の出来事だった上に、

どうしてもその日でないといけないことだからである。


同僚さんの意志の使い方にはいろいろツッコミを入れたいところはあるが、

強い意志は人をも動かすのだと、

私にとってはすばらしい教訓になったのであった。





| 2011.01.10 Monday | ちょびっと心理学 | comments(0) |

望みと最善策
16:27
JUGEMテーマ:日記・一般
 

今日の話題については、いくつかの出来事の積み重ねののちに、
ようやく見つけた人生の重要な事柄についての私見である。

同じ事は、様々な時代に多くの魂の探求者によって繰り返し述べられてきたことで、

決して目新しいものではないが、

本当に大切だと思うので、改めて私の言葉で表現できるのを願うのみである。



私は今までの人生で多くの事を願ってきたが、
その中でかなえられたものよりかなえられなかったものが遙かに多かった。

クリスチャン文化の中で生きていた私は、
かなえられなかった願いについて、

それが神の御心であり、
神は私のためを思い、私を鍛えるためにそうするのだと教わってきて、

無条件でそれを受け入れていた。


個人より周りの利益を願うのは当然であり、
特に物質的なことについては、節度をわきまえ、正しく願わなければならない。

それが私の信念に深くしみついていた。


かなえられなかった願いの中には、確かに今考えると無謀なものも含まれていたが、

ほとんどは決して手が届かないようなものではなかった。
それでも私は、神の御心にかなわないなら仕方ないと思っていた。

だから願う時、かなうかどうかは私が決めることではないので、
かなわないかもしれない、と心のどこかで思いつつも、

もし御心でしたらお願いします、という態度で臨むしかなかったのである。


このことは、人生の半分以上の間私の習慣になっていて、
年々、かなわなさそうな願いは最初からしないようになっていた。


先週末、少し難しいことがあって、
そのときに改めて願うとはどういう事なのか、と考える機会があった。

願いがかなったときとかなわなかったとき、
その違いは何だったのかを改めて検証したときに、

瞑想を通して気づいたことがあった。


願う、という行為は、実は人は常に行っている。
意識されることもあれば、無意識に行われることもある。

「強く願うと必ずかなう」とよく言われるが、
それは本当である。

ただし、かなうのは理性の望むことではなく、
心の奥で本当に願っていることの方なのだ。

だから時々人は「これは私が望んだ結果ではない」と思うかもしれないが、

それは理性と心の奥で望む方向が違っているということに過ぎない。
願いは確かにかなっているのだが、それを理性が受け入れられないこともあるのだ。


また、願いがすぐにかなうときとそうでないときがあるが、
実は時間はそう重要な要素ではないようなのだ。

ほとんどの願いは「直ちに」かなえられる。

ただ、現実化するまでのタイムラグが、願いにより少し違うだけである。
時にはすでにかなっていることに気づかないこともあるのだ。


さて、何かを願う前に大切なのは、
それが本当に心から願うことなのかを自問することである。

内なる者が同意するなら、それは必ずかなう。
もし理性と心が一致しないときは、協議が必要である。

また、物質的なものであればそれを手に入れたあとの自分をイメージする、
そうでなければ、望む結果が得られた状態をイメージすることも、


願いがきちんと届くには必要なことである。


そして、願いを確実にかなえるには、
願った後、理性に仕事をさせないことが大切である。

つまり「願いがかなうための最善策」を一切考えないことである。

理性が働かない方が、早くかなうものなのだ。
(これは過去の私の体験が教えてくれた教訓である)




願いは、実は神に伺いを立ててかなえてもらうものではなく、

神あるいは偉大な力にサポートしてもらいながら、
私たち自身がかなえているのである。

ここでもわたしたちは、自らの意志を行使しているのである。



つたない言葉で、どのくらい伝えられるかは分からないが、
今言えるのはここまでである。

何かの参考になれば幸いに思う。




| 2011.01.10 Monday | スピリチュアリティー | comments(0) |

Healing is a choice on one's own(癒しは選択)
10:35
JUGEMテーマ:日記・一般

今日は短めに。


一昨日腰を痛めて、昨日は痛みがひどく動くのもままならない状態だった。

それでも我慢して夕方専門学校の講義に行ったら、
見かねた鍼灸の先生が空き時間に治療をしてくれて、

帰りには痛みもほとんど無くなりいつもどおりの生活を送れるようになった。


こんなにすばらしい、癒しの技術を持っている先生への感謝と尊敬の念を抱くと共に、
癒される方法はひとつではなく、

何を選ぶかは自分次第だなと感じた。


今の世の中、癒しを求めている人はとても多いと日々感じるが、

その中には、癒される手段がまだ分からない人、
癒されることをどこかで拒んでいる(癒されたくない)人、

癒しを求めていろんな方法を試しながらも、
いまひとつ満足感をもてない人など、いろんな人がいるように思う。


私自身、人を癒すことに度々関わっているが、
よく言われるのは「癒したい人は癒されたい人」という言葉である。


もう少し掘り下げるなら、
自分がまだ十分癒されていないと感じ、
人を癒すことで自分も癒されることを望んでいる、

といえるかもしれない。


しかし、非常に多くの時間をこの職務に費やしてきて、

癒された人もいれば、癒されなかった人もいる、
という事実を前にして、


改めて気付いたのは、

癒す力はすでにその人の中に備わっていて、
癒すかどうかはその人の内なる選択である

ということであった。


自らの癒しを引き延ばしながら他人を癒すこともできるし、

まず自らの癒しを選択し、一つの課題を乗り越えた後で
他人を癒すことへ関わることもできる、


どちらが正しいということはないのだろうが、

後者の方が、燃え尽きや激しい疲労感を体験することなく、
穏やかに自らの仕事に集中でき、

癒しに関する相手の選択を尊重することもできるだろうと思う。



もう一度言うが、癒す方法は無数にある。

要はどの方法であれ、自らの中にその力があると気付けるかどうか、
それを受け入れられるかどうかだと思う。


 

| 2011.01.06 Thursday | ちょびっと心理学 | comments(0) |

改めて、家族について
11:39
JUGEMテーマ:日記・一般
 
明日からいつも通り、週6日の仕事が待っている。

働くことについても、いろいろと思うことはあるが、
まずは、年末からずっと考えていたことを書きたいと思う。


特定の誰かからの質問に対する答え、というわけではないが、
もしかしたら、見てくださる誰かにとって、答えを見つける足がかりになればと思っている。


発達心理学やトラウマ領域の研究で言われているのは、

家族、特に母子間の愛着形成の重要性であり、
もしそれがうまくいかないとなると、その後の人生における重要な人間関係にネガティブな影響を残すというのが、

大方一致した見解なのである。

以前より、被虐待児の心理療法に関わり続ける中で、
確かに愛着の大切さを実感することは多かったが、本当にそれだけなのかという疑問も常にあった。

というのは、国際養子縁組などで全く違う文化圏から養子として迎えられた子たちの中で、
望ましい環境で育てなかった子どもたちが、

必ずしも後の人生の人間関係で躓くとは限らないという例外もいくつか見てきたからである。

さらに、過去の被虐待歴を抱える人たちのうち、
自分が親になり子供を虐待する人が、およそ3分の1というデータもあるが、

残り3分の2に当たる人たちがどう自分の人生を立て直しているのか、
明らかな情報はないものの、親子以外の人間関係が鍵であるとも言われており、

世代間伝達というのが、単に育ちの環境だけが要因で起きるわけではないと、
多くの専門家も指摘している。


とりわけ発達心理学は、
特に6歳までの愛着形成を重要視しており、
9歳を過ぎると修正がほとんどできなくなる、と主張するのに対し、

トラウマ治療では、大人になって過去にさかのぼり親子関係の再構築に取り組んで、
それが今の人間関係に好ましい変化をもたらすこともあって、

愛着をどう捉え、家族関係に対して第三者として何ができるのか、
臨床活動を始めてからずっとその答えを探し続けていた。


というのも心理の仕事の半分以上が過去の家族関係にまつわるトラウマや今の関係についての悩みであり、

大勢の人が今も家族との関係にどこかで苦しんでいるわけで、
上記のような、発達や愛着形成という一方向からの視点に偏ってしまうと、

親を選べない以上、起きたものはどうしようもなく、
過去をどう整理し、これからどう生きていけばいいのかを探っていくしかない

という結論になってしまうことに、常にどこかで違和感を感じていた。


しかし、スピリチュアルな領域でたびたび言われるような、
自分で親を選び、決めたシナリオの人生を生きる(体験を通し課題をクリアするために)

という考え方も、私には今ひとつしっくりとこなかったし、
(もちろん、人生の課題はあると思うし、それを乗り越える手段もあるとは思うが)

今まで味わってきた苦痛の意味をそれだけで説明するのは難しいだろうと感じた。


そこで年末年始、周りが実家を訪ねたり親戚で集まるという話題が飛び交う中で、
相変わらず皆ばらばらに正月を過ごす我が家族の姿を思い浮かべながら、

改めて家族とは何か、母子関係とは何なのかを考えてみた。


いや実は、「考えた」というよりは「いらない考え方を捨ててみた」といったほうがいいかもしれない。

今まで当たり前と受け入れていた、
血のつながりや母子関係についての常識を

あえて持たずに改めて親と子の関係を眺めてみたのである。


出産後の母親が、子供に対し無条件に愛情を持てるようになる
という神話はすでに否定されている(脳科学を引き合いに出しても言える)

そもそも、生理学的にも血縁というのは何の安定した人間関係の保証にはならない。

また、役割という意味でも、
子供に対し母親しかできないことは限られており、
それはほとんどが生存に関わるものなので、

子供が自立し始める頃には、次第に固定された役割は少なくなっていく。

スキンシップや声かけのようなアプローチも、
実の親子でなければならないということはないのだ。

そうやって、いろんな考え方を吟味し、削り、捨ててみると、

最も身近な関係の中にあるのも、
それ以外の人たちとの関係の中にあるのも、


結局は愛か不安(恐れ)かのどちらかしかない、という
ジャンポルスキー博士の言葉にたどり着いたのであった。

親子は特別な関係ではない。
ただ、「人生の初めての出会い」なだけである。

うまくいくこともあれば、いかないこともある。

たとえうまくいかなくても、誰かのせいや「失敗」と捉えなくてもいいのだ。
ましてや、罪悪感を抱くことも辞めた方がいい。

不安や怒りを呼び覚ます関係に、いつまでもしがみついている必要などないし、
もっと、安らぎを得られる手段を選ぶこともできる。

その出会いを、どう生かすかは、
要はわたしたち個人が何を信じるかによるのではないか。

しかも、信念自体いつでも変えられるのだから、
望まない関係もまた、修正は可能なのである。



さて、ここからもう少し深く掘りさげさせていただきたい。


親があなたを愛せなくても、他の誰かがあなたを愛する。

そもそも、愛情は与えられなくても不足はしない。
不足しているのではなく、忘れているだけなのだ。

人との関係は、愛情のやりとりをするためというよりも、
自分自身に愛する力があることを、思い出すチャンスだと考えてみるとどうなるだろうか。


親が投げかける否定的な言葉や冷たい態度は、
本当にあなただけに向けられたものなのだろうか。

彼らは何を恐れているのだろうか。

もしあなたの親を、愛を出し惜しみし、かつ愛を素直に受け取れない人物と見るなら、

あなたは彼らに何をするだろうか。
そこには何が残るだろうか。


この問いを一つずつ吟味していくことで、
おそらくはそれぞれが求めている答えにたどり着くか、

あるいはあるがままの姿が少し見えてくるのではないかと思う。

















| 2011.01.03 Monday | ちょびっと心理学 | comments(0) |

People live their own personal reality.
10:26
JUGEMテーマ:日記・一般
 

さて、ようやく無事に正月を迎えることができて、
時間もできたので続きを書きたいと思う。


前回紹介した「超電磁砲(レールガン)」は実はスピンオフ作品で、

元々は「禁書目録(インデックス)」の方がメインであり、
同じタイムテーブルで、違うストーリーが展開するというシステムになっている。

若干ややこしいのが、両者に登場する人物と、
どちらかにしか出てこない人物がいて、

特にインデックスの方は、正直話が複雑すぎてついていけてないというのが事実である。


こちらは電撃文庫で最初から読めるので、

DVDをあきらめて本を少しずつ読み進めているのだが、
登場人物が多すぎるのと、主人公誰?と言いたくなるくらい、主人公格が複数いるため、

誰を中心にして見ていくかにより、ストーリーの楽しみ方が違ってくるようである。


率直な感想としては、チープな推理小説よりはるかにおもしろいと思う。

東野圭吾以来の、マイブームである。


科学サイドの話は、単なるおもしろさだけではなく、

全く絵空事の話ではないというわくわくした気持ちで見ていたが、

インデックスについては、ストーリーというよりも登場する人物の関係性というのが、

分析屋(アナライザー)としての興味を相当にくすぐっていて、

とりわけ、一方通行(アクセラレーター)と打ち止め(ラストオーダー)のやりとりに、
非常に惹かれるものを感じている。


インデックスの魔術サイドの登場人物も、あるいは科学サイドの登場人物も、
何らかの並外れた能力や感性を持っている人が多いのだが、

時には聡明で、時には愚直で、中には歪んだ世界感や矛盾を抱えながら、

それでも自分が信じる方向へと進もうとするその生き様が、

まさに人間だなあ、と実感する次第である。


皆進む方向はばらばらで、

彼らが正義と信じるものもまた、微妙に違っているのだが、


それこそが今の世の中の鏡のような気がして、

なぜこれほど世界が多様な人間の集まりなのかという答えがそこにあるように思えた。


彼らは同じ世界を見ながら、違う反応を示す。

それは彼らが皆、自分自身の個人的現実(パーソナルリアリティー)を生きていることに他ならないのだ。


わたしたちにも、全く同じことが言える。

それに気づいたときに、
他人に合わせる、同調するということが無意味に思えてきた。


私の現実と、たとえば息子や職場の同僚の現実が違っているのは当たり前なのだ。

そう考えると、はっとした。


今まで私は、宗教的な善悪の基準を取り入れて正しく生きることにエネルギーを費やしてきた。

でも・・・


すべての生きる物に共通する正しさなどどこにも存在しないのだ。



宗教ですら、正しさを争うのは、
彼らに共通の基準がないからである。


そのときに、「あるがまま」の意味を、改めて味わえた気がした。



真理は一つかもしれないが、
そこに至る道は無数にあるし、実は違っていることが全体なのかもしれない。


もし、何かの答えを探しているとすれば、
それは身近などこかにすでに存在している。

これだけが正しい、というわけではなさそうである。



ライトノベルズから飛ぶにしては、難しい話になったことはご容赦いただきたい。






| 2011.01.02 Sunday | ちょびっと心理学 | comments(0) |

謹賀新年
10:21
JUGEMテーマ:日記・一般


新年あけましておめでとうございます。

今年もどうなるやら全く分からないが、書けるだけ書きたいと思います。

見てくださる皆様へ、

幸多き一年になりますよう、心よりお祈りいたします。



 

| 2011.01.02 Sunday | 雑記 | comments(0) |

いま、あなたの目には何が見えてますか?
14:17
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JUGEMテーマ:日記・一般
 

”超電磁砲(レールガン)”は息子が先に見つけてきたものだが、

ちょっと見て私もはまってしまったシリーズである。

1年だけ脳科学の実験をやっていたこともあって、
ストーリーの内容に一発で惹かれたのと、

登場人物の個性がうまいこと描かれていたのが、
分析人としての興味のツボに入ってしまった。


で、結局全巻見てしまったw


さて、上記のタイトルは上記DVDの23話のもので、
それにまつわる小さなシンクロニシティーについて書きたいと思う。


実はこの記事を書く2時間ほど前、
仕事の事でひどく落ち込んでいた。

本当は今日は午後出勤する予定だったのだが、
昨晩から体調が悪く回復が遅れたので、仕事に行けなくなってしまった。

それ自体は、どうしようもないことだったのだが、
他にもその仕事に関しては2回ほど変更をしていた経緯もあり、

それで上の人に迷惑をかけていたこともあって、

やりとり自体は収まるところに収まったが、
申し訳ない気持ちと自分のふがいなさへの怒りでいっぱいになった。


どれほど気をつけようとしても、
どこかで失敗を重ねる自分を受け入れようにも、

何もできないまま時間が経ってしまった。


本当はやるべき事はあるが、それも手をつけないまま、

何となくDVDを見始めてしまったのだが、


不思議と自分に言われてるようで「あっ」と思ったのが
上記の台詞であった。

自分の責任と思ってしまうと、
失敗を自分で何とか取り返そうと必死になるあまり、

周りが見えなくなる。私にはそういうことがよくある。

今日も全くその状態であった。

この一言で我に返ったのは言うまでもない。


確かにいま私の目に見えているのは・・・

4にゃんずだが、そういうことではなく、
周りから孤立無援のように感じるのは見えていないから、そういうことなのだ。


私たちが目にするもの、手にするものは、

本当は宇宙の意志の贈り物であり、

すべてはベストのタイミングで起きていることを、
また改めて感じる体験であった。


確かに何事もやるかやらないかは自分次第ではあっても、

常にサポートの手をさしのべる存在があることを、
忘れてはならないと思った。


この話にはもう一つ続きがあるが、

そろそろ体力が尽きてきたので、別の機会にしたい。





| 2010.12.23 Thursday | ちょびっと心理学 | comments(0) |

巡り合わせ
11:30
JUGEMテーマ:日記・一般
 
最近、周りが少しあわただしいが、

それに呼応するように、自分の中身もあわただしい。

もし、初めから準備されていたシナリオがあって、
その通りに事が進んでいるとしたら、

起承転結の「転」に当たるのが今なのかもしれない。


私は8歳の頃からキリスト教会に通い始め、
20歳を過ぎてから自分の意思で洗礼を受けた。

およそ30年あまり、キリスト教の教えを自分の基準として取り入れてきた人間である。


しかし、30台半ばでトラウマの領域に足を踏み入れたあたりから、

私の価値観や信念が揺らぎ始め、
教会から足が遠のいていた。

別離を決定的にしたのが離婚ではあったが、
その前からすでに、宗教から距離を置き真実を深く希求するようになっていた。


誰に勧められるまでもなく瞑想を始め、

それから目に付く本は片っ端から読んだ時期を通り抜けると、

今度は自分の内側の葛藤や感情に目が向くようになった。
理性が思うようには内界へ近づけない理由を探して、

更に自分と向き合う作業を今も続けているところだ。


さて上記の本は、ツイッター→ブログ経由で、
何となく注文してしまったものだったが、

本が届いた日、前述のようなことがあったため、
何かあるのかも、と読み始めたら1時間余りで読み終えてしまったのである。

しかもいつもなら読んだ内容から何かを取り入れるはずが、
私が本を手にする前にすでに考えたり気付いたりしていたことが、

本の中にそのまま活字として書かれてあったのに非常に驚いた。

こういうことは、今までほとんどなかったからである。


実は2ヶ月ほど前に瞑想に関する別の本を読んでいて、

その頃から善悪や正誤といった二元的な考えを極力持たずに
物事を全く違う観点から眺めるよう努めて意識しており、

今まで持ち続けてきた信念に見合うできごとしか体験していないと気付いていた。


だからこの本との出会いは、
頭の中で起きていた変化が、すでに現実になりつつあることの証明のような気がした。


同時に、この世には多くのメッセージが発信されているが、
その核になる真理は全く同じであり、

どこからどんな登りかたをしても、たどり着く場所は同じだなと思った。


ただし一つだけ本の内容で、今までのものと違うのは、

不快な感情を、本当の自分を隠す為の手段であり、
人生の登場人物が、本当の自分を見出すための協力者という考え方で、


自我を不要なものとしてではなく、
魂へたどり着くための「贈り物」とみなしているところである。


これが、今までの葛藤をほどくには大いに役立っており、

毎日必要な箇所を読み返しては、

「自分が引き起こした困難」を「宇宙の贈り物」に変換する作業が続いている。



このような巡り合わせについて、

偶然と捉えるか、引き寄せと捉えるか、いくつかの選択肢があるように思えるが、

自らの意思というよりも、宇宙が常にサポートしてくれている、という著者の考え方が、
最も腑に落ちるように感じている。









| 2010.12.22 Wednesday | ちょびっと心理学 | comments(0) |

不思議なできごと
10:34
JUGEMテーマ:日記・一般
 

お久しぶりです。


先月末にウイルス感染で体調を大幅に崩した後、
仕事の方でいろいろと難しい問題が起き、

その対応に追われているうちに、
時間があっという間に過ぎていたようだ。


気づいたらもう年末。

実は今日は2週間ぶりの休日なのである。
どれほど忙しかったかは、それでご想像いただけると思う。


先週、思いがけないところから相談したいと申し出があり、
予定外のカウンセリングを引き受けてしまった。

しかも、立て続けに2件、内容はどちらも非常に似通っていて驚いた。
こんなこともあるのかと、不思議だった。


詳しい内容などは一切公にはできないが、
家族に関する深刻な問題、と一言で言えばそういうことになる。


年齢も背景も全く違うが、話の中身は本当に共通点が多かった。
しかし、出来事に対する当事者の反応や受け止め方は大分違っていた。


同じような内容の語りを繰り返し聞いていると、
あることに気がついた。


似たような人や体験を寄せ集めるのは、自分自身の何かの信念ではなかろうか、と。


さらに2人目のカウンセリングの途中で、
もう一つ不思議なことが起きた。


私は滅多に、相談の途中で自分のことを思い出したりはしないが、

そのときはなぜか、相手の話を聞きながら自分の体験が頭の中に一瞬浮かんできたのだ。
(前置きしておくが、相談の内容と私の体験の共通点はほとんどない。共通するのは、苦しい感情だけである)


そして次の瞬間、「あれ?」と思った。


今までずっと、一方向からしか見えていなかったある出来事が、
全く違って見えたのである。


それは、元相方との離婚の顛末である。

最も理解が難しかったその出来事に対する、別の側面がはっきりと見えたことで、
それまで抱いていた感情が変わってしまったのだ。


元相方は、離婚に際し私がどれだけひどい妻であったかということを、
裁判所でつらつらと並べ立て、自分の心証をよくするためにあらゆる手段を取ったのだが、

よく考えてみれば、
けんかも言い争いも、それほど激しくやりあったわけでもなく(実際かみ合わないから話にならなかった)

元相方が嫌で家を飛び出したのでもなく(仕事をするためだった)
お互いに相手を憎み合った訳でもなく、


つまり、世の中の人たちが考えるような、
離婚するためのはっきりした理由は本当は存在しなかったのだ。

でも、元相方は何かの拍子にスイッチが入り、
一旦別れると決意したら、もうそうするしかないわけで、

彼にはもう、そこしか見えていなかった、それが実情だったのである。


私はそのとき、「お互いが信じてた通りになっただけなんだな」と気づいた。

善悪という考え方を取っ払ってしまうなら、

この出来事がこのタイミングで起きるのは自然なことだった、と受け入れることは難しくなかった。


すでに、私の中ではほとんど整理がついていたことではあったが、

それまでは、そうはいっても私の中には少しだけ苦い感情が残っていて、
それを理性で納得させようとしている自分自身がいた。


でも、この時、私に残ったのは感謝の気持ちだけだった。


この出来事はそれだけでは終わらなかった。

奇しくも同じ日に出会ったある本が、
さらにその深い意味を教えてくれた。


そして私は、すべての出来事が一本の線でつながっていたことをはっきりと知った。


続きはまた、次の記事で書きたいと思う。



| 2010.12.19 Sunday | ちょびっと心理学 | comments(0) |